社会福祉法人日本ライトハウス創業90余年の軌跡
日本ライトハウスの創業者岩橋武夫は、早稲田大学に在学中、21歳で失明しました。今日とは違って福祉環境はきわめて貧弱な状況でしたが、母や妹(しづ・後に壽岳文章博士夫人となる)に支えられて失意を克服し、大阪市立盲学校・関西学院に学びました。そしてその頃、国際語として評価の高かったエスペラント語に親しんで、大正11年に『日エス辞典』などの点字図書を印刷したのが日本ライトハウスの創業(「点字文明協会」)とされています。
その後、多くの善意に支えられて大正14年英国のエジンバラ大学に留学し、修士学位を得るとともに、英国の社会福祉の実情をつぶさに見聞して、昭和3年に帰国しました。そして自宅に「ライトハウス建設資金募集」の看板を掲げ、昭和4年ライトハウス運動家マザー夫人(アメリカ盲人援護協会AFB会長、ヘレン・ケラー副会長)の講演通訳を務めるなど、ライトハウス会館設立を目指します。その後、関西学院大学や大阪市立盲学校で教鞭を取るかたわら、『光は闇より』『母・妹・妻‐女性に与う』など多数の著作を刊行し、また自宅を開放して点字図書館事業を開始するとともに、請われて大阪盲人協会の会長にも就任しました。
昭和9年には渡米して4か月にわたる全米巡回講演を行い、この時の謝金や印税・篤志家の寄付金を基に、阿倍野の地に「ライトハウス会館」の建設を開始しました。また米国滞在中にヘレン・ケラー宅を訪れ日本訪問を依頼します。そして昭和10年ライトハウス会館竣工とともに点字図書の出版や貸出し、援護相談と訪問指導、各種の講習・勉強会など、今日につながる諸事業を組織的に始めました。
ヘレン・ケラー女史の日本招聘は、身体障害者福祉の抜本的な改善を願った岩橋武夫の発案で、戦前(昭和12年)・戦後(昭和23年)の2回、朝日新聞・毎日新聞の協力を得て、全国ヘレン・ケラー・キャンペーンを実施し、多大な成果をあげました。
第二次世界大戦中は失明軍人の社会復帰を担当し、名称も国策にそって「ライトハウス会館」を「愛盲会館」と変えて事業を推進したのですが、遂に経営主体は軍人援護会に移管され「失明軍人会館」とされてしまいます。
戦後、同会からの施設払い下げを受けて復活、視覚障害者の自立を目指した武夫の理念「有能なる社会人の創造」を掲げて事業に取り組みます。一方、ケラー女史の支援もあって進駐軍(GHQ)の空き缶回収を許され、収益事業部門の金属工場を設立して、身障者の働く場の確保と福祉事業の自己資金の安定を図り、実弟の岩橋文夫らをその運営に専念させて成果をあげます。
また武夫は、昭和23年に日本盲人会連合の結成を皮切りに、日本盲人社会福祉施設協議会に続いて、世界盲人福祉協議会の日本委員会を主宰し、アジア諸国に対する贖罪の気持ちを“アジア盲人福祉会議”(昭和30年10月20日)の開催という形で表すべく企画するのですが、昭和29年56歳で死去しました。
武夫の死後は、長男の英行が2代目理事長となって事業を継承しました。まず、盲学校教科書の供給基地として点字出版所を充実し、点字図書館には録音テープによる声の図書部門を置き、社屋を拡張するため、昭和35年に現在の鶴見区に新社屋を建設・移転を行うとともに、武夫が手掛けていた『コンサイス英和辞典』の点訳などの懸案を完了させました。
昭和40年からは、視覚欠陥学の確立を目指して生活訓練・職業訓練を開始しました。歩行訓練の拡張充実のため盲導犬育成も事業に加え、昭和44年にはさらに競輪益金による補助を得て新館を建築し、日本最初のリハビリテーション事業の基礎を固めました。
英行は自身も失明宣告を受けていましたが、国際協力に熱心であった父の遺志をも継ぎ、明子夫人の協力を得てアジア会議やアジア委員会を推進するとともに、世界盲人福祉協議会の役員、後には副会長に就任して尽力しました。また、日本国内に失明防止に関する国際協力の必要性を訴えて、昭和47年、大阪・兵庫を中心にアジア眼科医療協力会(AOCA)が創設されました。AOCAはネパールなど医療・福祉の水準の低い国々に対して、眼科医師など専門家を派遣するとともに、各国の人材の育成に努めてその自立向上に寄与しています。
この年、これも戦前からの懸案であった『世界盲人百科事典』の編纂が関係者の尽力で完了し、ライオンズクラブ等の支援を得て出版することができました。
昭和52年、オイルショックの影響などで金属工場からの利益金繰入が困難となったため、資金のすべてを社会事業部門に移管して収益事業を閉鎖するのやむなきに至りました。金属工場は別法人となり、日本ライトハウス自身も、拡大する福祉需要に対応する自己資金確保のため経済界の協力を依頼するほか、ロータリークラブ等の協力によるチャリティコンサートの開催や、社会各層に対する募金活動や援助会員による草の根募金を始めました。
昭和53年、篤志家から土地の寄贈を受け、競輪益金による補助を得て、和歌山県田辺市に行動訓練所を建設し、盲導犬の育成をはじめとする多角的な歩行訓練を本格的に実施することが可能になりました。次いで昭和54年、これも篤志家の土地寄贈と競艇益金の補助により点字図書館が西区土佐堀に進出し、「盲人情報文化センター」の名のもとに、各種ボランティアの協力を得て、視覚障害者に対する幅広い情報提供サービスを始め、そして健常者と障害者がともに手を携えて歩める社会を目指し「共歩共生」を唱えました。
昭和59年、岩橋英行が急死した後は、明子夫人が志を継ぎ3代目理事長として盲人福祉の理念を一般に啓発する盲人福祉展≠フ開催に尽力したほか、障害の重度化・重複化対策など新しいニーズに対応する事業展開に積極的に取り組みました。
老朽化していた各施設のうち、まず点字出版所は平成2年度競艇益金による補助を得て、コンピュータ制作をメインとする「点字情報技術センター」として東大阪に移築しました。また、訓練部門は国庫と大阪市の補助金によって、平成4年4月、「視覚障害リハビリテーションセンター」という総合的な事業に生まれ変わりました。そして大阪府下に事業を集約させるため、平成7年4月に和歌山県田辺市にあった行動訓練所を大阪の千早赤阪村に移築し、盲導犬訓練所として新しく事業を開始した。また平成9年に日本ライトハウス後援会「灯友会」を立ち上げ、事業を円滑に運営してゆくための収入基盤を強固にしました。
平成11年、国立特殊教育総合研究所視覚障害研究室長であった木塚泰弘が4代目理事長を継いで、明子夫人は会長に就任しました。
平成12年、障害者を取り巻く環境・施策等の変化に対応するため、日本ライトハウスの基本理念を「自立と社会参加のためのパートナーシップ」として取り組むことになりました。視覚障害者の情報のニーズも高度化・多様化し、情報環境のバリアフリー化へ向けた先駆的な取り組みを始めました。また平成15年から始まった基礎構造改革により、支援費制度の移行にともない、リハビリテーション事業の再編を行いました。
続いて平成21年には、障害者自立支援法の新体系にもとづき、サービス事業として「障害者支援施設」「障害福祉サービス事業所」を開始しました。また同年、西区の新館を改築し「情報文化センター」と改称して、全国の目の見えない方・見えにくい方の情報・文化・コミュニケーション≠フ拠点となるよう、新たに事業を始めることになりました。
平成25年、木塚泰弘が退任したあと5代目理事長として橋本照夫が就任しました。新陣容のもと、改法となった「障害者総合支援法」の制度移行に基づき、日本ライトハウスの使命(ミッション)と政策理念(ポリシー)を新たに策定し、創業100周年に向けて新たな歩みを進めることになりました。
以上の理念を念頭におき、日本ライトハウスの使命である「視覚に障害のある人の側に立った支援サービス」を全うしてゆきます。
今後も日本ライトハウスは、視覚障害者のための総合福祉施設として、「目の見えない・目の見えにくい人々の行く手を照らす燈台」として、灯をともし続ける覚悟です。
※ 創業90周年(2012年)を記念して『往復書簡 日本の障害者福祉の礎(いしずえ)となったヘレン・ケラー女史と岩橋武夫』を刊行しました。
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