ヘレン・ケラーと日本ライトハウス

 日本ライトハウスは、創業者岩橋武夫とヘレン・ケラー女史の20年間にわたる篤い友情と信頼のもとに育くまれ、今日まで歩んできました。ヘレン・ケラー女史への感謝をこめて、日本ライトハウスの沿革をご紹介します。 (社会福祉法人日本ライトハウス創業90余年の軌跡もご覧ください)

ヘレン・ケラー
岩橋武夫
名誉総裁 ヘレン・ケラー
創業者 岩橋武夫

あなたのランプの灯を いま少し高く掲げてください 見えぬ人々の行く手を照らすために

ヘレン・ケラー

−彼女は、昭和12年、23年、30年と3回にわたって来日した。第1回目は「奇跡の聖女」、第2回目は「幸福の青い鳥」、第3回目は「古き良き友」として、日本に降り立った。彼女の残した足跡は、またわが国の身体障害者福祉の前進の歴史でもあり、まさに人々が捜し求める「青い鳥」そのものであった。ヘレン・ケラー女史来日を、かげながら企画したのは筆者の亡父、岩橋武夫であり、その関係から筆者は12年の時にはヘレンの膝に抱かれ、23年のときには同じ道を求める良き先輩として、そして父の亡きあとの30年には、彼の後継者として彼女に接した。− (岩橋英行著『青い鳥のうた ヘレン・ケラーと日本』日本放送出版協会、1980年発行)

 日本ライトハウスの創業者 岩橋武夫が、カナダからメキシコにいたる講演旅行のために渡米したのは1934年(昭和9年)8月15日のことでした。アメリカに滞在中の12月、ニューヨーク郊外のフォレストヒルにあるヘレン・ケラー女史の家を訪れた岩橋武夫は、「日本に来て、ぜひ盲人に力を貸してください」と来日を強く願います。しかしこの時、ヘレンの恩師であるサリバン先生が重い病の床にありました。返事を悩む彼女に対しサリバン先生は、「遠い日本から、盲人事業啓発のために来ていただけないかとの依頼なら喜んでいってあげなさい」と励まし、彼女も遂には「まいります。今度はあなたのお国でお目にかかれるのを楽しみにしています」と岩橋武夫に答えました。

来日の記念に秋田犬を送られて喜ぶヘレン・ケラー

 1937年(昭和12年)、サリバン先生が亡くなられた翌年の4月のこと、ヘレンは遂に横浜港に降り立ちます。1935年(昭和10年)に建設されたライトハウス会館はもちろんのこと、ヘレンは秘書のポリー・トムソンや武夫とともに7月末までの3ヶ月半、全国各地の盲・ろう学校などを訪れ、子供たちや関係者の精神的に支えていきます。ヘレンがポリーに口話法で話したり尋ね、ポリーの言葉はヘレンがポリーの喉、口、鼻腔に指をあてる読唇法で理解し、ポリーの英語は岩橋武夫が通訳する、といった形で行われた講演や対談は、日本国内だけでなく満州、朝鮮にもおよび、「奇跡の聖女」として、各地で熱狂的な歓迎を受け、人々を勇気づけました。

 2度目の来日は1948年(昭和23年)8月。戦争の犠牲となった人々や占領下の日本で、これからの行動を模索していた岩橋武夫にとって、待ち望んでいた2度目の来日です。それはまた、「日本の盲人事業に少しでも助けになるなら、日本に行きたい」というヘレンが武夫にあてた1947年6月の手紙の実現でした。出迎えの人たちで埋め尽くされた東京駅プラットホームでヘレンは、思わぬ行動で人々を驚かせます。  −「タケオ!タケオ!」と、もどかし気に手を前にさしのべ、まさぐるように歩き始めたのである。ポリーも慌てた。武夫は、その声に導かれるように、人々をかきわけるようにして歩き出した。二人の手は引き寄せられ、そして、堅い長い抱擁がそこにあった−(『青い鳥のうた』)。

ポリーの通訳で会話をはずませるヘレン・ケラー

 9月3日の東京講演を皮切りに東北・北海道から始まった講演旅行は10月5日の日本ライトハウス訪問後、19日まで神戸、広島、長崎など西日本の各地を訪れ、数十回の講演は日本国民を勇気付ける言葉に満ち溢れていたといいます。ヘレンの再来日を機に、厚生省が「盲人福祉法」を立案し、臨時国会に提出することになり、「身体障害者福祉法」に形を変え制定されていきます。また労働省では9月1日から1週間を「身体障害者職業更生週間」として全国的に障害者雇用の積極的な活動を行うことを始めるなど、政府への影響も大きいものでした。ヘレンの2回目の来日は、その後の日本の福祉制度の整備や人権意識、自立を支える運動に大きな影響を与えたといえましょう。

 1949年(昭和24年)、岩橋武夫は視覚障害者の職業や福祉事業の変化や今後の展開を学ぼうと、アメリカを訪れます。滞在中は週末ごとにコネティカット州に転居していたヘレン宅に招かれ、再会を喜び日本での思い出に花を咲かせると共に、今後の使命についても思いを深めていきました。努力を積み重ねた不屈の人であるヘレンは岩橋武夫にこう告げます。  −「私はアフリカと南アメリカを、あなたはアジアを守ってください」。武夫は自国の発展とアジアへの援助、そして国際的な事業間協力を心に誓った。−(『青い鳥のうた』)

 帰国後、武夫は点字図書館の充実、盲人用具の開発と配布、職業へのアプローチ、病める人々へ手をさしのべることなどを目標にし、また「日本盲人社会福祉施設協議会」「日本盲人福祉委員会」の結成、コンサイス英和辞典点訳、世界盲人百科事典編纂などの事業を行っていきます。そして「アジア盲人福祉会議」の第1回開催準備に奔走していた1954年10月28日未明、喘息の激しい発作で帰らぬ人となりました。

岩橋武夫の遺影に花をささげるヘレン・ケラー

 1955年(昭和30年)6月3日、武夫の霊前に花環を捧げるために、三度ライトハウスを訪れたヘレン・ケラー女史は、またアジアの視覚障害福祉の前途を祈りました。1956年に建立された岩橋武夫の碑には、ヘレン・ケラーの言葉が次のように刻まれています。
"Takeo Iwahashi whose liberating mind shines upon the blind of Nippon"
「その解き放つ心 日本盲界に光り輝く タケオ・イワハシ」(寿岳文章訳)

※ お知らせ
 NHK放送開始90周年記念にあたり、2015年4月初旬頃より「昭和回顧録 ヘレン・ケラー来日 昭和12年」がNHKアーカイブスポータルサイト(http://www.nhk.or.jp/archives/)で紹介されます。是非ご覧ください。

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