日本ライトハウス創立者 岩橋武夫
(1954-昭和29-年10月29日付朝日新聞"天声人語"より転載)
◆愛盲事業に一生をささげ、数々の業績を残したライトハウスの主、岩橋武夫氏の死を一番悲しむ人は、おそらくヘレン・ケラー女史ではあるまいか。◆人間苦につながり人間愛に固く結び合った二人の交友は二十年にもわたり、岩橋さんは心の光としてケラー女史を仰ぎ、女史の二回にわたる来日の橋渡しをした。氏が贈った金色のカナリヤがなくなったとき、女史は可愛いタケオが死んだといって泣いたそうである。◆早大在学中に失明したその打撃は想像に余るが、狂わんとする心の舵を取り、励ましたお母さんがあったから、今日まで生きて来られたのだと、岩橋氏は口ぐせのように語っていた。◆傷心癒ゆべくもなかったろうが、神戸時代の関西学院文学部に転じてのちの不自由な通学に、雨の日も風の日も文字通りその杖となって助けたのは、令妹と、後に令妹と結ばれた学友の寿岳文章博士であった。当時男ばかりの学校に紅一点の姿も日立ったが、盲兄に代ってノートをとる女性の姿は学内の同情と敬愛を集めていた。◆人生悲痛の底に陥った岩橋氏が人間らしい感情をとりもどし、快活な学生となり得たのは、全くこの母とこの妹と友人の献身的な愛情に温く包まれたからであろう。その意味では恵まれた環境であったともいえようし、氏の事業はこうして生れたともいえよう。◆愛盲福祉事業、学校経営、点字出版、それに愛盲事業を通しての日米親善など、失明苦に徹した宗教的な感情が、この困難な事業に献身させた。今ほど社会事業も愛盲事業も一般に理解も普及もされていない時期のことだ。事業を維持し進めるものは氏の不屈の闘志と努力しかなかったのである。信ずる道への熱情が時に摩擦も起したが、それを身体不自由者の偏狭と解するのは当たるまい。◆愛こそ人生の灯火である。岩橋氏の一生こそ、その例であった。主なくともライトハウスには永えに光あれ。
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